五竜岳遭難始末記
1.山行計画

【計画の立案と目的】
当会は73年度冬山合宿を後立山に計画し、11月偵察、12月ボッカ、雪上訓練を経て、12月30日入山。4泊5日で五竜〜唐松の縦走に成功。初の北ア冬合宿に一応の成果を挙げた。しかしながら、ピークに至るまで立派なトレースが完成し、ルートファインディングもワカンも必要としない冬山に疑問を感じた一部会員の間で、人のいない遠見をやりたい、という気持が強くなった。

かくして、74年3月、ビバーク、ラッセル訓練を含む氷雪技術の錬磨と五竜登頂を目指す計画が立案された。遠見尾根から4日間でラッシュアタックの予定であった。計画の概要は以下の通り。

【メンバー】
I:井形啓己 25歳 L・食糧
R:白数 広 23歳 会計・食糧
T:佐藤 功 19歳 装備・気象

【行動予定】
3月14日夜出発。15日、神城―小遠見―大遠見(幕営)。16日、大遠見―白岳―五竜山荘(冬期小屋)。17日、ピークピストン後、小遠見まで下山。18日帰京。

【共同装備】
ツェルト(3人用底付)1、グランドシート1、ザイル9mm40m1、ホエブス1、コッヘル(小3枚組)1、スコップ(ピッケル用)2、ガソリン3.5l、ポリタン(1.5l用)2、細竹(2m)16、赤布若干、捨縄若干、カラビナ3、カメラ1、ラジオ1、温度計1、地図、磁石、天気図用紙、医薬品一式、ろうそく2、スキーストック2、巻紙1、たわし1、ナイフ1、双眼鏡1。

【個人装備】
ピッケル、アイゼン、ワカン、シュラフ、マット、オーバーヤッケ、オーバーズボン、オーバーシューズ(又はロングスパッツ)、手袋(予備1)、セーター、目出帽、ゴーグル、雨具、純毛下着、靴下(予備1)、ラッセルリング、懐中電灯(予備電池2)、食器、武器、メタ、マッチ、タオル、保険証、非常食、靴紐予備、アイゼンバンド予備、古新聞、弁当2食
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2.遭難までの行動経過

事故発生までの行動経過
《3月14日》 2320発アルプス7号にて新宿を発つ。
《3月15日》 600,645神城―740,755遠見尾根取付点―855,915リフト終点―955,1040遠見小屋―1130,1150地蔵の頭―1300,1310 1840m左折点―1405,1435小遠見―1545大遠見幕営地―1930消灯(気温マイナス4度)

正月の賑わいが嘘のような神城駅頭に立ったのは我々だけである。快晴の空をバックに白馬三山がモルゲンロートに映える。ほんの数人滑っている遠見スキー場を抜け、尾根取付点へ。スパッツを着け、急斜面を登り始める。朝日を浴びて暑いくらい。雪が腐って滑るが、トレースがありラッセルの要はない。リフト終点で2本目。東の風5m。地蔵の頭、小遠見付近に雪煙。春の柔らかい陽射しを浴びて快調に高度を稼ぐも、遠見小屋からは北西風強く地吹雪。冬支度して小屋を出る。

すぐ深雪となり、強風下ワカンを付ける。地蔵の頭では猛烈な地吹雪のためしばらく動けず。ここからアイゼン併用とする。この時Rが片方のオーバー手袋を飛ばされる。3月とはいえさすが北アルプス。歩く所か目も開けていられない。ヤッケとズボンが悲鳴を上げ、今にも破れそうにバタつく。風の呼吸を待って前進。小遠見そして天狗岳への稜線には雪庇が出ている。トレースはないが雪は締まっており、トップ交替の要もなくオーダーは終日T、R、I。大遠見手前の2000m地点で行動を打切り、大川沢側にツェルトを張る。寝る前にキジ打ちに出ると大町の灯がきれいだ。

《3月16日》 300起床 515出発―625,40西遠見―750,55 白岳―830,905五竜山荘冬期小屋―1030G2直下―1130稜線―1200,10ピーク―1300G2―1330夏道下降点―1355滑落事故発生

昨日の天気図に拠れば、気圧の谷の接近で今日午後辺りから吹き出し2〜3日は悪天となろうが、深い谷ではなく極端に荒れることはないと思われる。従って、白岳の雪の状態さえ良ければ山荘までは行けるだろうが登頂は多分無理だろうと判断していた。マイナス5度、風弱く薄曇り視界良好。アイゼンを付けて出発。鹿島槍北壁、カクネ里、天狗尾根そして五竜東壁が良く見える。西遠見からトップのみワカン併用。最低コルから見上げると、雪崩を心配した白岳の稜線にはかすかながらトレースがあり、雪も良く締まっているのでほっとする。

途中、雷鳥夫婦が我々と歩調を合わせて登る場面があり緊張がほぐれる。いつもながら疲れる登りである。白岳ピーク辺りで雪となる。予定よりかなり早く山荘に到着。冬期小屋は正月より一段と雪が増えており、ザックを外し、四つんばいで潜り込む。中には単独行者が1名いるのみ。荷をデポしてピーク往復と決定。行動食、水、ツェルト等を入れたザックをIが背負う。Rはザイル、Tはカメラと赤旗を持つ。この分担が死生を分けることになろうとは。

R,T,Iのオーダーで小屋を出る。夏道通しにトラバース気味に登る。視界が利かず。雪の状態も正月より悪い。念の為赤旗を立てて進む。G2直下に達してそこから直上すべきをルンゼ1本トラバースし過ぎ、リッジ状を登攀するはめとなる。氷でコンクリートされた岩稜をフリーで20m直上、急な雪田20mを出歯を効かせて駆け上がる。再びもろい岩稜をスタカットで20m伸ばして稜線に飛び出す。ここからはコンテでリッジ通しに進む。ガスが濃く、視界10〜20m。風雪強くなる。

一度ルートを誤り支尾根に踏み込む。12時丁度にピークに着いたが真っ白で何も見えない。オーバー手袋のまま無言で握手を交わす。寒いので記念撮影をして早々に下ることにする。リッジをたどりG2手前の岩稜に着く。さっき苦労したので、今度はその対岸にあるやさしそうな岩稜をルートに採る。黒部側へトラバース気味に下降し夏道に入るつもりであった。オーダーはI、R、T。ザイルを固定して2ピッチ、更にコンテで1ピッチ下り、ザイルを回収。

この時Iの落したゴーグルが音も無く白い闇に消えた。風雪は冬の後立としては強くないが、視界は全く利かない。ベルグラとクラストした雪で薄化粧した不安定な岩場を下る。夏道まであと10mの所でIがアイゼンを取られて転倒。平均35度のルンゼ状雪面をバウンドしながら滑落。

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3.遭難後の行動経過

事故発生後の遭難者Iの行動経過
16日 13時55分。滑落中、頭を打ち意識不明となる。15時回復。コールを掛け応答ある。天候回復まで停滞と決定、左に少し登って雪洞を掘る。風雪続く。

17日 風雪停滞。未明、乾燥新雪表層雪崩発生。雪洞埋まるが雪浅く助かる。

18日 快晴のち曇り。6時40分出発。7時30分RがIを発見。自力で登攀中、10時岡山大パーティーを案内してきたRに助けられる。12時ピーク。14時五竜山荘。15時10分救助ヘリに乗込む

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4.遭難時の装備と食糧

遭難時の装備・食糧

【紛失した物】右アイゼン、カメラ、眼鏡、双眼鏡、

【服装】革製二重靴、オーバーヤッケ、オーバーズボン、純毛スポーツシャツ、ラクダ上下、純毛靴下、ロングスパッツ、純毛手袋、オーバー手袋、目出帽、ネッカチーフ、ランニングシャツ

【食糧】フランスパンかけら、マーガリン、マーマレード、レーズン1/2袋、ソーセージひとかけら、チョコレート1/3枚、みかん2個、かまぼこ2切れ、オボスポーツ1箱、ベーコン少々、水0.5L

【装備】アタックザック(ナイロン大)、ツェルト、ピッケル、アイゼン左、磁石、ろうそく、マッチ6、ワンダー、予備電池、シュリンゲ、スイスメタ、食器、望遠レンズ、包帯

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5.救助活動の経過

救助活動経過
《3月17日》
16時、長野県警よりN宅へ第一報。H山の会部長へ連絡。長野県警へ会だけで捜索隊を編成出来ない旨説明。地元に依頼。現場が富山県側なので富山県警の指示に従えとのことで依頼し直す。しかし、富山県警では、新潟経由で入ると時間が掛かるので長野県の民間救助隊に出動要請したとのことで、改めて長野県警に依頼。白馬派出所より、ヘリ要請依頼がある。ヘリは東京の東亜国内航空(ベル204B)で、当方より出来るだけ多くのサポート隊を出す様指示ある。夜行で2名が先発隊として現地へ向かう。

《3月18日》
5時、先発隊大町署へ行ったが、白馬派出所が捜索活動の中心ということで白馬の遭難対策本部へ行く。さわど旅館に待機中のTより事故当時の模様を聴く。事故後2日経過しており、そう長くは持ちこたえられないから今日が勝負、ということで改めてヘリ要請。しかし、東京が悪天でヘリが飛べないとの連絡。歩くとすると捜索活動は3日後からとなるし、装備・食糧調達もやり直しということで暗い見通しであった。取りあえず唐松、五竜小屋の夏用寝具、食糧を使わせてもらう様、小屋経営者に要請。

その後、中部電力がチャーターした小型ヘリが松本にあることが判明。10時半頃、中部電力の許可が得られ天候が良ければ飛ぶとの連絡が入る。10時40分、白馬大雪渓で姫路山岳会、大阪市役所山の会が雪崩にやられたとの報告あり、ヘリは合同使用となる。12時15分、白馬へ1回目の飛行。パイロットの報告で、五竜方面は雲が厚くて飛べないとの事であった。第2班2名到着。

14時10分、天候が回復してようやく五竜へ飛ぶ。同40分、五竜小屋へ着いた救助隊員からの第1報で、遭難者は本日14時頃、R、岡山大山岳部パーティー及び山岳写真家金子定雄氏に助けられて小屋へ到着していたとの連絡が入る。本人は肩と腰を打っているが歩けるとのことで、直ちに東京へ連絡。15時15分、ヘリがR、Iを載せて戻る。直ちに警察の車で病院へ。関係者は旅館に待機。夕刻、第3班5名到着。

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6.捜索費用

捜索費用
 【支払分】
イ  現地捜索隊人件費 207,578円
ロ 同右  慰労会費  61,468円
ハ 現地関係者謝礼  11,160円
ニ ヘリコプター費用(姫路と折半) 188,160円
計 468,366円

【充当資金】
イ  山の会遭難対策費積立金 120,366円
ロ 部費及びカンパ  50,000円
ハ 48年度同光会補助金残額  10,000円
ニ 慰労金(Iの父親より)  45,000円
ホ 同光会見舞金  20,000円
ヘ 48年度同光会補助金より  23,000円
ト 個人負担分 200,000円
計 468,366円

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7.遭難の原因

事故原因として以下の諸点が考えられる。

�ゝ蚕囘�未熟→これが最大の原因であろう。冬山の基本である氷雪技術の未熟、ルートファインディング能力の不足は否定出来ない。冬は可能な限り稜線を歩くべきであり、トラバースは避けた方が良い、という初歩を忘れていた。多少、雪の状態が悪くても下降出来るだけのアイゼンワークを身に付けることが急務である。

�⊃欺鼎気良埖�、不注意→全員既知のルートである点、正月は順調だった点、五竜山荘まで予想より楽に行けた点などから、わずかにせよ気の緩みがあったことは否めない。また、あと少しで悪場は終わりということで緊張が緩み、歩き方に慎重さを欠いたといえる。

�F�体的疲労→幕営地出発後9時間、五竜山荘出発後5時間経過しており、自覚してはいなかったが客観的にはかなり疲れており、足取りが不安定であったと考えられる。

�だ兩秕�態の悪さ→当時の気象状態は、風雪・北西の風15m・視界20m・気温推定マイナス10度であり、行動に支障が出る程の悪天ではなかった。しかし、稜線直下の岩稜帯は、氷の上に薄く締まった雪そして新雪が混在して〈いやらしい〉状態であった。これが滑落の直接のきっかけであり、また滑落停止を妨げた一因でもある。

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8.生還の要因

今回の遭難は、以下のような多くの偶然と幸運が重なり、地元救助隊も驚く奇跡的生還となった。

�ゝぞ歸�要因
・天候の回復が早く、この為に自力脱出、救助ヘリのフライトが可能となった。
・雪崩が1回しかなかった事
・例年より雪が多く、岩稜が埋まっており軽傷で済んだこと。また、この急斜面にも拘わらず半ば埋まるようにして自然停止したと考えられる。

�∧�的要因
・パーティーのうち偶々遭難者だけがザックを背負っており、しかも500m流されてザックが飛ばされなかった事。
・ピッケルバンドが切れず、アイゼンも片方残った事。この為雪洞が掘れ、また自力脱出が可能となった。
・二重靴、ダブルのヤッケ、ズボン、らくだ上下等冬山としてほぼ完全な服装であった事。
・ヘリが松本にいた事。

��人的要因
・山岳写真家金子氏、岡山大パーティーの救援活動
・残ったメンバーが適切な行動を取った事
・遭難者が比較的経験・体力があり、沈着に対処した事
・ヘリのパイロットがベテランで、狭い小屋前に着陸出来た事

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9.メンバーの手記

【T】
3月16日、13時55分、I滑落。瞬間、3m程前を赤いものが滑り落ちすぐ見えなくなる。その場所を引き返し、クラストした小沢を10m程下るとルートの赤布を見つける。視界10mもなし、現状況を考え、小屋まで戻るのが先決と思い、滑落地点に会の赤旗を立て小屋へ向かう。

風雪の中を歩いているうち、下の方よりIのコールを聞く。これでIが生きているという確信を得、白数と二人して喜ぶ。しかし、小屋の場所ワカラズ。読図をしながらやっと15時30分、五竜山荘に戻る。小屋には山岳写真家の金子定雄氏がいたので状況を説明、救助を頼む。絶えず下からコールがあるが、吹上げが強いので場所の確認デキズ。16時頃から金子氏と小屋直下の沢を200m程下り、コールを掛けるが応答ナシ。

暗くなるので捜索を中止し、18時小屋に戻る。金子氏とRが明日の捜索について相談し、明朝Rが救助を求めに遠見尾根を下る事にする。気持ち悪く夕食を抜く。代わりにオボスポーツを飲む。

17日。風雪。6時、Rと白岳まで登る。風雪強く白岳で40cmの積雪。視界全くキカズ。R遠見尾根を下るのを一時見合わせ、小屋で天候回復を待つ。金子氏との協議で金子氏とTが唐松から八方へ下る事に変更する。R小屋に残る。10時55分出発。風雪は弱まったが、昨日からの積雪の為膝から股まで潜る。しかし、金子氏がトップでラッセルしてくれる為どうにか着いて行ける。昨日夕食を抜いたのが効いているようだ。食糧だけの荷物でもキツイ。

大黒、牛首岳はリッジ通しに登り、12時40分唐松山荘。13時、八方の下りに向かう。視界相変わらず悪い。しかし、風が当らなくなり体全体が暑くなって来る。14時30分八方池山荘。ここからトランシーバで村役場と連絡するがつながらない。黒菱平まで下り、電話で白馬派出所と連絡、遭難の状況を知らせる。リフトとケーブルを使い、白馬山麓そして派出所に着く。派出所長、北ア遭対協の方々に、場所・時間・墜ちた状況・生存の可能性などを再度詳しく話す。直ちに救助隊の出動とヘリコプターを要請。この日は旅館に泊まる。

18日。朝、駆けつけた先発隊に改めて遭難の状況を話す。

【R】
17日。10時55分、金子、T救助隊要請の為に下山。風雪強く、時々小屋から顔を出して様子を見るが、視界が利かずテントへ戻る。(小屋内に張った金子氏のテント借用)寒さ厳しく大変みじめな心境だ。ラジオをかけて気を紛らす。16時風雪少し弱まる。16時30分、小屋を出る。風雪は止み、空は先程の荒天が嘘のように晴れて、雲海が眼下一杯広がっている。谷間は先夜来の吹雪でかなりの積雪があり、Iの安否が気遣われる。五竜への稜線を登りながらCALLする。

最初のCALLで応答を聞き、夢中でCALLを繰り返すが今度は森閑としている。先程のは空耳か山彦かそれとも白岳側に登山者がいるのか、若干薄気味悪く思う。日没。18時小屋へ戻る。悲観的な気持で飯を食う。19時就寝。寒さと気の昂ぶりで中々寝付かれない。救助隊の来るのは明朝9時頃かと予想する。

18日。5時起床。6時半、ザックに食糧を詰めて小屋を出る。空は全く晴れ、一面の雲海。少し稜線を登った所で恐る恐る声をかける。「おーい」確かに応答があった。間違いなくIの声である。夢中で駆け登る。眼鏡をTに貸しているので中々確認出来ない。声の方向に一生懸命に目を凝らすと、尾根を二つ越した谷の急斜面に張り付いているようである。斜面を下り始める。息が切れる。途中、瘤に登って、唐松、白岳側を見張る。8時頃更に下って雪崩を警戒しながら谷を回り込む。すごくバテてしまった。高所へ登り直して救助隊の来るのを見張る。白岳に登山者発見。

救助隊かと大声を上げるが気付かない様子。小屋へ戻る途中、登山者一人に出合い事情を説明するが要領を得ない。小屋には何人か登って来ているそうである。9時頃小屋に着くと3人パーティーがいた。事情を説明して救助を依頼する。ザイルを用意してもらい案内する。息が切れて時々足を止めながら進む。発見した場所にIがいない。CALLがあるから動いているらしい。谷を下りて尾根を回り込んだ。10時発見。思ったより元気そうである。ザイルで確保してパーティーの人から魔法瓶の紅茶を分けてもらう。彼はうまそうに飲んだ。

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10.遭難者の手記

ふと気付くと雪の上に寝ている。時間は15時。冬山の格好をしているが俺は何をしているのだろう?周囲は30度位の雪面。視界は20m。ザックとピッケルがすぐ近くにある。眼鏡と右のアイゼンがない。どうしてこんな所にいるのか?
ザックの中味を調べて思い出そうとするがダメである。冬山らしいがどこの山なのか?夢か?さぼっている脳細胞を総動員し、手帳の記録を見てやっと思い出す。五竜登頂後、最後の悪場でアイゼンが滑ったのだ。

しかし、その瞬間の記憶は定かでない。気が付いたら流されていた。クラストした雪にあっという間にピッケルを飛ばされ、為す術もない。だらしなくも滑落停止の構えすら出来ない。訓練と本番はまるで違うと悟ったがもう遅い。「これでおれは死ぬんか」という思いがかすめる。頭を打って回転したらしい。無駄とは思ったが、頭を両手でカバーし体を出来るだけ小さくする。ものすごいスピードだ・・・

そして、停まった。頭を上にして。胸、肩、腰、腕・・・全身が痛い。「遭難!あー、えらいことになってしもた」という感じ。だが、切迫感はまるでなく淡々とした気持である。何とかなるだろうと腹を決める。ガスっていて現在地は確認出来ない。

時間も遅いので雪洞を掘る事にする。時々ピッケルを動かす手を休めてコールを掛ける。何度目かに上の方から応答があった。これで生存は確認したはずだから、彼等がうまくやればそのうち救援が来るだろう。問題は雪崩である。両側を岩稜に挟まれた急な雪渓のど真ん中、逃げ道はない。高さ50cm、間口130cm、奥行60cmの空間に潜り込む。夜になっても乾いた雪が降り止まず、埋まるので寝てられない。夜半3時頃だったろう。予想通り一発来た。「ダーン」という、腹に響く音がしたかと思うと雪に埋まっていた。

新雪表層雪崩が真上を通過したらしい。若干焦ったが、雪は浅く、ピッケルで刺すと手が外に出た。二発目が来ないうちに雪洞を拡げる事にする。腹ばいになったままピッケルで周りの壁を少しずつ削り、ツェルトの袋に詰めて外へ捨てる。この繰り返しだが、全身特に両肩が痛く、狭い中での作業は遅々として進まない。時折、昨日こぼした干ブドウが発掘されるのが唯一最大の楽しみ。足を伸ばせる我が家が完成したのは昼近くである。この日も雪。そんなに雲は厚くない。

風はないが体中濡れているので、じっとしているとたまらなく寒い。せめてマットがあればと思う。時々、胴震いする。ツェルトなしで二人はどうしたかな。昨日はコールがあったが今日は何も聞こえない。風の音だけが、誰かが呼んでいる様に聞こえる。それにしても静かだ。体力を消耗せぬ様なるべく眠るが、寒さと空腹で2時間おきに目が覚める。その度に少し食べ、スイスメタとろうそくで暖を採り、濡れ物を乾かす。包帯を丁寧に乾かしてさらしみたいに腹に巻く。

らくだのシャツを重ねると少しましである。ツェルトがびしょ濡れで湿気と酸素不足がひどく、極端に火付きが悪い。ろうそくを点ける度にマッチ一箱駄目になる。クリープのあきびんでオボスポーツを暖めるのに小1時間掛かった。

18日2時。寒さにたたき起こされツェルトから首を出す。満天の星。万歳。明るくなったら出発と決定。残りの食糧を全部食べ、安らかにツェルトをかぶる。この雪洞での40時間、飢えと寒さは確かに厳しかったが、精神的には余裕があった。もっとも、あと2日吹雪かれたらどうなったことか?・・・

予定より寝坊して、6時、顔を出す。予想通り快晴、無風。五竜山荘、白岳がやや目の上、谷を隔てて北北東。唐松が真北に見える。これから登り返す五竜の稜線が朝日に映えている。雪崩が一寸心配。今は食糧も水もゼロ。背水の陣である。何としても今日中に小屋に着かねば。良く眠れたので気力と体力は充分。いつも通りゴミをザックに詰め、世話になった雪洞を後にする。改めて辺りを見渡し、よくこんな斜面で止まったと感心する。

アイゼンが片方しかないのでベルグラの岩稜を避け、雪の深い方へルートを採る。右寄りに五竜ピークへ向けて登る。雪質が色々変わり、傾斜が強くなる。7時半頃、稜線近くに人影発見。コールしてRと確認。彼は「動くな」と言い残して小屋に戻っていった。少し休んでまた登り始める。

傾斜は増す一方で、60度以上だ。顔の20cm前が雪壁である。垂直に感じる足元にはヨタヨタとラッセルの跡が続いている。ここで滑ったら一貫の終わりだ。緊張。左足の出歯を思い切り蹴り込み、蒼氷の上の新雪をだましだましせり上がる。ホールドはフワフワの雪のみ。微妙なバランスを強いられる。汗がにじみ、一歩毎に深呼吸。この20mの壁に2時間位へばりついていたろうか。照り付ける陽射しに雪崩を気にしながら、最後のハング気味雪庇状を乗っ越して雪稜に出る。ヤレヤレ。

30度位の緩斜面を左へトラバース気味にラッセル。間もなく四つの人影が見えた。Rが誰かを連れて来てくれたようだ。「助かった!!」しばし放心。極度の緊張が解けたせいか、体中の力が抜ける。ピッケルを深く刺し、目を閉じて大きく息をする。取り乱さないようにしなくては。10時、R一行と出会う。先頭に立って降りてきたリーダーらしき人の、何と頼もしく思えたことか。

ザイルの末端を手渡され、有難いような、情けないような実に複雑な気持でブーリンにする。大きく踏み固められた足場にたどり着く。差し出されたテルモスの紅茶を思わず咳き込み、「そんなにあわてなくてもたくさんありますよ」とたしなめられる。前後を確保されて、のろのろと登り始める。2時間ほどで稜線に出た。目の前に鹿島槍への縦走路がある。ピークまで50m地点。眼下には雲海が広がり、展望は素晴らしいはずだが、そんな余裕はない。着いて歩くのがやっとという有様。コンテのまま登る。

すぐに、迎えに来られた金子氏に遭う。名前を確認してカメラを向けられると、急に熱いものがこみ上げてきた。生きて還れたんだ。努めて平静を装うとするが、涙がとめどもなく流れる。何度も転んでは支えられ、足場を切ってもらって、ようやく小屋へたどり着く。中に入って、散乱した荷物を整理し始めるとヘリの音がした。

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11.金子定雄さんからの手紙

前略
心配していた程でなく山を下りる事が出来てよかったですね。大黒岳で見つけた人影が白岳にさしかかる頃には5人となって山頂を目指していました。小屋の外にはザックが3個あり、5人の中に井形さんがいると確信しました。余りお役に立ちませんでしたのにお心遣いいただき恐縮しています。たった一日晴れただけで19日から風と雪の世界に変わりました。24日食糧・燃料がなくなり下山しました。
雪の山にもどことなく春が感じられます。一週間後、八甲田へ行きましたが樹氷が落ちてサッパリ駄目でした。今日(4月8日)の夜行で白馬岳に出かけます。山にばかり行ってますのでいつ頃になるかわかりませんが、都内に行った時にでもお会いしたいと思います。
草々


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12.後記

「冬のあの谷に落ちて生きて還った者はいない」当時、警察の人に言われた。つくづく運がいいと思うが、体力的に全盛期であったことが大きい。湿った雪の中は尋常な寒さではなかったが、怪我は大した事がなかったので精神的に余裕があり、雪洞は初めてだったにもかかわらず、通常のビバークと同じ感覚で、全く不安を覚えなかった。

しかし、技術の未熟によるミスで多くの人に大きな迷惑を掛けたことは許されるものではない。大勢の方々に救援に来て頂き、本当に申し訳なかった。特に同行した白数・佐藤両君には心身両面で大変な苦労を掛けてしまった。

山岳写真家の金子定雄さんが偶々五竜小屋にいて佐藤と共に行動し、救助活動に協力していただいた。この時金子さんが撮られた写真が朝日新聞に掲載された。残念なことに1年後に亡くなられ、再会はならなかった。

最近このページを見たということで金子さんの弟さんから連絡をいただいた。何度かメールをやり取りしていた所「金子定雄遺作集」という立派な写真集を送って下さった。金子さんはこの事故後に若くして亡くなられたのだが、その死を悼んだ仲間の山岳写真家が膨大なネガの中から選んだ写真でこれを作られたそうである。山へのひたむきな思いが伝わってくる写真集である。事故から間もなく30年を迎えようという矢先に金子さんの写真集が届くとは何かの因縁を感じてしまう。インターネットは思わぬ縁を結ぶものである
 

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